『武士の起源を解きあかす』読書メモ
源氏や平氏あたりの起源かと思ったらもう少し昔の、古代豪族との関連とかまで遡る感じだった。
第一章では現状の一般的な認識とその問題点が指摘されていた。
武士の起源についてどんな考え方があるか紹介されていて良かった。
大江匡房が近衛と武者を分けているのが確かに気になった。
第二章
武士という言葉の初出(朝廷が各分野の優れた人に恩賞を与えたときの文書)から、朝廷に仕える臣としての武士の解説。近衛周り?
武士の必須技能である弓馬(歩射と騎射)を身につけるのは長い時間と費用が必要で、有閑階級でなければ身につけられないという話。
その弓騎兵の供給元の話。全ての皇族と臣に弓術と馬術の訓練を義務付けて、定期的に腕前を披露するように義務付けた天武天皇。養老年間に、蝦夷への対応のため地元民にも弓術・馬術を身につけることを試みた話、聖武天皇の時代に、弓馬の技能を持った富裕な民も閲兵式に参加させた話、郡司の子弟(主に地方豪族の末裔)に兵衛に取り立てる話。
兵衛府と近衛府と衛門府を合わせて衛府という。
賀茂神社の葵祭での武芸披露。近江に住んだ百済の遺臣(騎射文化を持つ)の影響の推測。
地方豪族は朝廷だけでなく、王臣家にも武芸に秀でた者を供給して見返りを得ていた。
庶民から構成された兵は軟弱で使い物にならなかったので奈良時代末期(780年)に太政官から苦言が呈され、三関と重要な辺境を除いて廃止された。富裕で武芸の心得のある者を集める方針になった。
これによって富裕百姓が出世する道ができた。実際に百姓の出身でありながら、弓馬を習い功績を立てて、出羽国司に推薦され官に「出身」した者もいる(神服部連貞ら)。
また同じ頃(778年)に唐の使者の入京に伴い、六位以下(士身分)の子孫で騎兵の心得のあるものが集められ800人が調達できた。
ここで富裕百姓出身と中央の廷臣出身という2つの出身母体・供給源からなる戦士集団ができ、これらが一、二世紀かけて融合しあい武士が形作られていったとする。
桓武天皇の代になって(783年)、坂東八国に対して、それぞれ国の規模に応じて千から五百の塀を組織する命令がだされた。郡司の子弟に加えて、散位と浮浪者の類からも集められた。
5年後の蝦夷との決戦にも動員された。その後、平安京への遷都や新羅との緊張緩和や蝦夷との三十八年戦争の終結があり、有閑階級の軍事力は地域の紛争・収奪競争に利用されていく。
古代の地方社会の収奪の主体は王臣家が専らだった。武士が生まれてからは国司(受領)が主になっていく。
王臣家の歴史について。